薬師寺 (下野市)に関する豆知識
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
薬師寺(やくしじ)または下野薬師寺(しもつけやくしじ)は、現在の栃木県下野市(旧河内郡南河内町)にかつて存在した仏教の寺院である。
概説
続日本紀によると、天平勝宝元年7月13日(749年9月3日)、全国諸寺墾田地限が定められた折には、奈良の法隆寺や四天王寺、新薬師寺、筑紫の観世音寺などと並んで五百町とされた。 奈良時代には、東大寺および観世音寺とともに、日本国内の僧侶を統制する国立三戒壇の一つに数えられ、東国の僧侶に戒律を授けて正式な僧侶の資格証明書である度牒を授け、中央戒壇(東大寺戒壇院)と西戒壇(観世音寺戒壇院)に対して東戒壇とも呼ばれた。中央政界で権力をふるった道鏡が宇佐八幡宮神託事件により左遷され、造寺別当(造寺司の長官)となったのも下野薬師寺であった。 平安時代に入ると、比叡山での戒壇設置とともに戒壇の需要は薄れ、次第に衰退していく。それでも日本三代実録によると、874年5月18日(貞観16年4月25日)から3日間の間、60名の僧が平安京紫宸殿において大般若経の伝読を行ったが、その金字仁王経71部を五畿七道各国に1部ずつ配布したほか、当寺には大宰府観世音寺および豊前国弥勒寺(宇佐神宮の神宮寺)とならび、各国配布分とは別の1部が配置されており、東国における当寺の位置付けの高さが窺われる。 戦国時代に小田原北条氏と結城多賀谷氏による戦渦に巻き込まれて焼失した。伽藍配置とその周辺
昭和40年代の発掘調査により、伽藍の中央に金堂、その北東に塔、北西に戒壇が想定されていたが、近年の再調査や新規の調査によって一塔三金堂の伽藍配置をなすことが判明した。すなわち、伽藍中央に塔、そしてその北に規格の違う東西金堂が確認され、回廊北に中金堂が取り付く配置である。 また、中金堂の北には講堂があり、さらにその北には僧坊があったことが確認されている。さらに、伽藍東には、伽藍内の塔が消失した後にあらためて建てられた塔のあったことを確認した。 一塔三金堂というと飛鳥寺がそうであるが、下野薬師寺跡と飛鳥寺とでは堂塔の配置がことなる。 なお、周辺地名は薬師寺となっており、近くに鎮守として薬師寺八幡宮がある。史跡指定
1921年(大正10年)3月3日、「下野薬師寺跡」(しもつけやくしじあと)として国の史跡に指定された。略年表
- 白鳳期 天智天皇期 創建と考えられる
- 天平5年(733年)頃 造寺司がおかれる
- 天平勝宝元年(749年) 諸寺墾田地限度が定められ、当寺は五百町とされる
- 天平勝宝6年(754年) 薬師寺の僧行信、八幡神宮主神の大神多麻呂等と呪詛を行った罪で刑部省の取り調べを受けたうえ、当寺に遠流される
- 天平勝宝7歳(755年)頃 戒壇が設置される
- 宝亀元年(770年) 道鏡が左遷され造寺別当となる(772年没)
- 嘉祥元年 講師が置かれる
所在地
- 栃木県下野市薬師寺1636




