八代市に関する豆知識
八代市(やつしろし)は、
熊本県南の中心的な
市で、県下第2の人口を有する田園工業都市。
日本三大急流の一つである
球磨川が分流して
不知火海に注ぐ三角州地帯の北岸に市街地がある。
江戸時代には、
熊本藩主
細川氏の筆頭家老
松井氏の
城下町として栄えた。
2005年8月1日、6市町村(八代市・
八代郡鏡町・
千丁町・
泉村・
坂本村・
東陽村)が合併し、新体制でスタートした。
概要
江戸時代以来の
干拓によって広がった平野部では農業が盛ん。
畳表の原料となる
いぐさの生産は日本一で、国産の約8割を占める。ただし、近年は安い中国産に押され、作付面積が最盛期の3分の1と急激に減少している。また、国内最大の
柑橘類・
晩白柚(ばんぺいゆ)も特産品で日本一の生産量を誇る。最近は
トマトの一大産地としても知られる。
明治時代になり
八代港が近代的な港湾として整備され、
1890年(明治23年)に九州第1号のセメント工場ができたのを皮切りに、以後製紙工場(九州製紙、現
日本製紙)、日曹人絹パルプ(現
興人)、昭和酒造(現
メルシャン)と相次いで進出し、工業都市へと発展した。
戦中、戦後を通して田園地帯や海岸埋立地に新しい工場が立ち並び、いぐさの生産も伸びて繁栄。当時、商店街、歓楽街や日奈久温泉の賑わいは熊本一だったという。しかし、近年は中心部の大型店の撤退や郊外の大型ショッピングセンターの進出などで中心市街地の活性化が課題になっている。
毎年11月に行われる「
妙見祭」は、
長崎くんち・
博多祇園山笠と並ぶ九州三大祭。御輿、獅子舞、神馬、花馬、傘鉾、亀蛇(がめ)などが居並ぶ行列は1kmに及ぶ。秋には毎年数十万人の観光客が集まる「
やつしろ全国花火競技大会」が行なわれる。
八代平野の南端にある
日奈久温泉は、合計16の泉源が集中しており、湧出量は毎時140トン、ほとんどの旅館がかけ流しである。江戸時代に熊本藩の藩営温泉場として栄えた。のんびりとした風情で、薩摩街道筋を中心に明治・大正・昭和の町の区割りがそのまま残っている。日奈久の名産として、細川氏の御用窯だった
高田焼(こうだやき)や竹細工、
ちくわが知られる。
地理
西部は
不知火海(八代海)に面した平野部で、その大半は江戸時代以降数次にわたる干拓によって広がったものである。東部から南部にかけては
九州山地の深い山間部で、合併によって市域は平家落人の里として知られる
五家荘まで及び
宮崎県と境を接する。
山岳
- 三峰山 (714.2m)
- 八峰山 (574.3m)
- 龍峰山 (517.2m)
- 大金峰 (1396m)
- 小金峰 (1377m)
- 国見岳 (1739m)
河川
- 球磨川水系(一級水系)
- * 球磨川(日本三大急流の1つ)
- * 前川
- * 南川
- * 古麓川
- 二見川水系(二級水系)
- * 二見川
- * 下大野川
- 大鞘川水系(二級水系)
- * 大鞘川
- * 夜狩川
- 水無川水系(二級水系)
- * 水無川
- 流藻川水系(二級水系)
- * 流藻川
- 氷川水系(二級水系)
- * 氷川
- * 河俣川
滝
隣接している自治体
人口
歴史
肥後国誌には「八代」の地名の由来は社(やしろ)で、
天照皇太神の山陵が上古にこの地に在ったので「やしろ」と言われるようになったと記されている。
九州王朝説では
倭姫命が定めた
伊勢神宮の有力候補地とされる。
景行天皇十八年(88年?)が九州を巡幸した折、休息されたとされる芦北の小島は八代市の
球磨川河口にある
水島である。
6世紀には、
百済に仕え二位達率と極めて高い官位を与えられた後に朝廷に招かれた
日羅大師の父
阿利斯登を輩出した。
推古天皇十七年(609年?)には百済の道欣恵弥ら僧11人と俗人75人が芦北の津(八代)に入港した。
古来より八代は
博多、
坊津と並ぶ九州の対外貿易港で、
みかんが中国南部より伝来した地であるとされる。
平安時代末期には
日宋貿易を重視した
平清盛の所領であり、
鎌倉時代になると
執権北条氏の所領となった。
室町時代初めの
1334年に
建武の新政時の功績により
伯耆国で海運業を営んでいた
名和長年の子、
名和義高が八代荘
地頭職を賜り、
古麓城と城下町を築いた。名和氏は、隣の
球磨郡の領主・
相良氏と室町時代を通じてたびたび争ったが、
1504年、相良氏が名和氏を追い八代に進出。相良氏は本拠を古麓に移し、
徳渕津が中国との貿易港として大いに栄えた。しかし、
1582年には相良氏は南の
薩摩・
大隅から勢力を伸ばしてきた
島津氏に服属し、八代から退いた。
その後の
1587年には島津氏も
豊臣秀吉の天下統一の過程で行われた
九州征伐で八代を追われた。当時の八代の人口は五万を数え
肥後国の中で最も栄えていると記録されており、秀吉は
隈本城や古麓城など肥後を
佐々成政に与えたが徳渕津は豊臣家の直轄領とし番大将として
寺西次郎介が入った。
肥後国人一揆で佐々成政が滅亡した後、肥後国南部の領主となった
小西行長は、古麓城を廃城とし新たに八代支配の拠点として1588年に
麦島城を築いた。
関ヶ原の戦いの後、
熊本城主・
加藤清正が肥後一国の領主となり、1612年、城代として
加藤正方が麦島城に入った。
1615年に
一国一城令が出されたが、麦島城は一国一城令の例外として残り、肥後国は熊本城と麦島城の一国二城体制となった
1619年、麦島城は大地震によって崩壊したが、幕府の許可により松江城(
八代城)が新たに築かれた。築城当時は、南北811メートル、東西1477メートルの大規模な城で、現在は本丸の石垣と堀が残っている。幕府が
一国一城令の例外として築城を認めたのは、島津氏に対する備えのためといわれる。
1632年、加藤氏の
改易により、
細川忠利が肥後の領主となると、その父・
細川忠興(三斎)が隠居所として松江城に入城。1645年に三斎が亡くなると、筆頭家老の
松井興長が入城した。以後幕末まで松井家3万石の城下町として栄えた。
1688年に城主
松井直之が築いた御茶屋「
松浜軒(しょうひんけん)」が今に残り、国の
名勝に指定されている。
ハナショウブなど四季折々の花が美しい庭園を備え、園内の松井文庫の資料館には松井家の家宝が展示されている。
1821年には、江戸時代の肥後国最大の干拓事業である七百町新地(鏡町)の干拓が行われ、米2,400石、塩1,600石の増収となった。
市域の変遷(市町村制施行以後)
経済
農業
2005年の農業産出額は302億円。主な農産物は、
米、
いぐさ、
トマト、
メロン、
キャベツなど。
製造業
2005年の製造品出荷額は2,103億円。うち、パルプ・紙が531億円で最も多い。
主な事業所
商業
2002年の
年間商品販売額は2,762億円。
主な商業集積
特産品、伝統工芸品
特産品
- いぐさ製品
- 晩白柚(ばんぺいゆ)
- 日奈久ちくわ、蒲鉾
- 塩トマト(塩分の多い干拓地の土壌ではトマトが水分を十分に吸い上げられず、その分小ぶりで旨みが濃縮され糖度が高くなる。フルーツトマトの元祖。)
- はちべえトマト(八代の冬トマトの愛称。産地が一体となって黄色灯を活用した害虫防除を導入し、減農薬栽培に努めている。八代地方で生産されるトマトの約80%は温暖な気候を活かして冬に栽培され、冬春トマトの出荷量は国内一。)
- 鮎製品(八代駅で販売されている駅弁「鮎屋三代」は、球磨川で獲れた天然の鮎を使った出汁で炊いた御飯に、鮎の甘露煮が乗っている。JR九州の「人気駅弁ランキング」で3年連続1位に輝く。)
- 辛子蓮根
- このしろ寿司
- しゃく味噌
- かずらどうふ
- しょうが、しょうが加工品
- えのきたけ
- やまめ、やまめ加工品
- 豆腐の味噌漬け
- しいたけ
- 柚、柚加工品
伝統工芸品
- 肥後つば(鍔)
- 宮地手漉き和紙
- 鮫(エイ)皮漆塗細工
- 鯉のぼり・武者絵のぼり
行政
歴代市長
(任期4年。+印は在職中死去)
八代市長選挙
2005年8月1日の新市発足に伴う八代市長選挙
;実施団体 八代市選挙管理委員会(2005年8月28日告示、9月4日投開票)
:有権者数112,144人(男性51,426人、女性60,718人)(2005年9月4日現在)、最終投票率79.89%
旧八代市の歴代市長