ライカに関する豆知識

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ライカ(''Leica'' ) とは #ドイツの光学機器メーカーであったエルンスト・ライツのブランド #1.が元になったライカカメラ、ライカマイクロシステムズ、ライカジオシステムズの社名の一部 である。本稿ではエルンスト・ライツとライカカメラ、およびそのブランドとしてのライカについて述べる。

概略

ライカM3の後継となるレンジファインダーカメラ「Mシリーズ」や一眼レフカメラ「Rシリーズ」、コンパクトカメラプロジェクターフィールドスコープ双眼鏡など、さまざまな製品を開発・販売しており、そのレンズ描写性能などクオリティの高さから現在でもプロカメラマンをはじめアマチュアでもコレクターや愛好者が多い。またデジタルカメラの分野においてもパナソニックと提携を行なっている他、Rシリーズ用のデジタルカメラモジュールやMシリーズのデジタル版ライカM8の開発・発売、中判クラスのデジタル一眼レフカメラライカS2の開発発表、デジタル一眼レフカメラ共通規格であるフォーサーズシステムへの賛同などが行われている。 1930 - 1940年代ごろには「ライカ1台あれば家が一軒建てられる」と言われた。例えばアサヒカメラ1939年11月号に掲載されているライカIIIaクローム+エルマー50mmF3.5の価格は820円、ライカIIIaクローム+ズマール50mmF2は1200円であった。当時小さな貸家が500円で建てられ、1000円あれば場所にもよるが東京で土地付き一軒家が購入できた。ただし、これには「カメラが高かった」ということだけでなく第二次世界大戦突入によりドイツからの輸入が困難になって価格が高騰した時期であることや、東京の土地が今より格段に安かったという要素もある。

歴史

エルンスト・ライツ

ライカの前身は1849年にカール・ケルナーヘッセン州ヴェッツラーで設立した顕微鏡メーカーオプティシェス・インスティトゥート(''Optisches Institut'' )である。ケルナーの死後その会社をその未亡人が引き継いだが、従業員だったフリードリヒ・ベルトレ(''Friedlich Berthle'' 、-1869年)がケルナーの未亡人と結婚し、社名をオプティシェス・インスティトゥート・ケルナー・ウント・ベルトレ(''Optisches Institut Kellner Und Berthle'' )とした。 その後、以前スイスの工場で働いていたユンカースという見習いを雇用したが、この男が以前働いていたスイスの工場で行なわれていた効率的な生産方法について説明していた際に、さらにその方法について詳しい機械工エルンスト・ライツ1世(''Ernst Leitz I'' 、1843年-1929年)を紹介し、雇用するようベルトレに勧め、1865年にこの会社にエルンスト・ライツ1世が参加することとなった。 1869年にベルトレが死去するとエルンスト・ライツ1世は事業を引き継ぎ、社名をオプティシェス・インスティトゥート・フォン・エルンスト・ライツ(''Optisches Institut Von Ernst Leitz'' )、さらにエルンスト・ライツ・オプティッシェ・ヴェルケ(''Ernst Leitz Optische Werke'' )とした。1905年にはボディー本体をヒュッティヒに外注しカメラ生産に参入、1907年には双眼鏡生産に参入した。

カメラのブランドとしてのライカ

エルンスト・ライツに勤めていた技術者オスカー・バルナック1914年、35mm映画用フィルムの2駒分を使用する小型カメラを試作した。これは後にライカの起源として「ウル・ライカ」と呼ばれることになるが、この段階ではライカという名前はない。試作した理由として「無類の写真好きであったが、小柄で体力もさほどなかったバルナックにとって当時主流の13×18cmガラス乾板を使用する木製大型カメラを持ち歩くことは困難だったため、自分にとって使いやすいカメラを求めて作り上げた」という説、「映画用カメラの開発に従事していたバルナックが、当時感度も低く品質も安定していなかった映画用フィルムの適正露出を調べるためにそのフィルムの一部を使い実際に撮影してチェックするために開発した露出テスト用カメラが、スチルカメラとしても流用できることに気づいた」という説など諸説ある。 1920年にはエルンスト・ライツ1世が亡くなり、跡を継いだエルンスト・ライツ2世(''Ernst Leitz II'' )がウル・ライカに着目、改良を加えさせた。折しも大不況の中、社内会議で発売中止に傾く中、エルンスト・ライツ2世はこれを製造に移すと宣言し、「ライツのカメラ」(''Leitz Camera'' )との意で「ライカ」と名付け1925年に市販一号機ライカI(A)を生産、販売することになった。 それまでのカメラは密着焼きにより写真を作るのが主流であったが、ライカはフィルムが小さく引き伸ばしを前提としたため、当時一般的でなかった引き伸ばし機が当初からシステムの一環として販売された。拡大に耐えるネガを作るために高性能のレンズが必要とされ、レンズ開発の技術者マックス・ベレークライツ・アナスティグマット(''Leitz-Anastigmat'' )をはじめとするさまざまな銘玉を世に出した。 また一般には「広角気味のレンズを常備し必要ならトリミングする」という手法が使われていたが、ライカの場合トリミングするとただでさえ小さいフィルム面積からの拡大率がより大きくなるため、画角に合ったレンズ交換の必要性が高かった。このため1930年レンズ交換が可能なライカC型が開発され、1931年に全てのカメラのフランジバックが統一され、エルマー(''Elmar'' )3.5cmF3.5、エルマー5cmF3.5、エルマー9cmF4、エルマー13.5cmF4.5、そしてヘクトール(''Hektor'' )5cmF2.5と基本的なレンズが揃った。 1932年連動距離計を搭載したライカII型を発売、交換レンズとして1931年ヘクトール7.3cmF1.9、1933年にズマール(''Summar'' )5cmF2が発売され、とりわけ報道写真において卓越した画像を多数提供したため、ライカの名声は不動のものとなった。また1934年に極めて優秀な人物撮影用のレンズ、タンバール(''Thambar'' )9cmF2.2が供給され、現代の写真撮影のライカ判全盛の基礎を確立した。 小さいフィルム面積に重要な画像情報が凝縮されていることから画質が損なわれがちだとして、旧来の写真家からは「撮影機材ではなく『スパイカメラ』にすぎない」等と蔑視されることもあった。しかし暗い場所での撮影のための大口径レンズ、広角や望遠での撮影のための交換レンズを揃えても2 - 3kgに収まり、写真家はかつての重い撮影機材から解放された。このことは僻地に持参する時や、被写体の動きを素早く捉えたい時にも役立った。 1950年代ごろまでの日本のカメラメーカーはライカを目標にして小型カメラの技術開発を行なっていたが、1954年に発表されたライカM3レンジファインダーカメラとして当時最高とまで言われるほどの技術を余すところなく投入しており、その性能の高さのあまり日本のカメラメーカーがそろって開発方針を一眼レフカメラへと大転換させるきっかけになった。ライカM3は今でも名機と賛美する人が絶えないが、このことが逆に現在主流の一眼レフカメラへのライカの参入を遅らせてしまうことにもなった。

ミノルタとの提携、ウィルド傘下へ

一眼レフカメラ化と低コスト化に乗り遅れたためやがて経営に陰りが出たエルンスト・ライツは、一眼レフカメラ開発で先行する日本の大手カメラメーカーからミノルタカメラ(現コニカミノルタ)に注目、まずM型ライカの外装部品製造を依頼、このことから両社の技術者の相互出張見学を通じて親交を深めていくこととなる。それから数年経過した1972年、エルンスト・ライツはミノルタカメラとカメラの製造を目的とした両社の特許やノウハウの相互提供、技術者の相互派遣、生産設備の相互利用による生産協力等相互協力協定を結んだ。エルンスト・ライツが外国企業と提携したのは初めてのことで、この提携ニュースは日本・アメリカ・ドイツで大きく報道された。この協力関係に基づき、両社の技術者が協力してミノルタカメラの工場で設計したライカCL1973年9月に発表・発売に漕ぎ着け、ライカフレックスSL2をほとんどミノルタカメラで生産、ミノルタXEの基本構成をライカR3以降に流用したりと一定の成果を上げた。その後提携は解消されたが、この技術提携によって双方の技術がその後の両社の技術開発に多大な影響を与えた。 しかし経営好転までには至らず、1973年のうちスイスのウィルドがライツ一族の株式を買い取った。エルンスト・ライツ3世は代表権を失い、1979年9月8日死去した。株式の53%を取得したウィルドの傘下で「当面ライカの製造は続ける」と発表されたが、1974年に生産され1975年に販売されたライカ発売50周年記念モデルを最後にウェツラー工場での生産は途絶え、社員6500名の過半数を減員し工場も整理され。その後はどこでライカを製造しているのかよく分からない状態が続いた。

メーカー名となったライカ

1988年になると「ウィルドはライカを製造しないので、工場を出た人たちでブランドを使用しても良い」旨の発表がされ、ソルムスに敷地が用意されたがエルンスト・ライツ・ウェツラーの名称は使用許可されなかったためメーカー名を「ライカ」とし、ウィルドの子会社としてカメラメーカーを立ち上げた。1990年に「ライカカメラ」に商号変更した。 その後エルメスの資本も一時期入り、その時期にはその革を使用した特別モデル等も発売されていたが、経営状態の改善が進まずエルメスは撤退した。2009年現在は次の3社に分かれている。
  • ライカカメラ(''Leica Camera AG'' )- カメラ部門。ドイツに本社。
  • ライカマイクロシステムズ(''Leica Microsystems GmbH'' )- 顕微鏡部門。ドイツに本社。
  • ライカジオシステムズ(''Leica Geosystems AG'' )- '' )の傘下に入った。

松下電器産業との提携

  • 2000年、松下電器産業(現パナソニック)とデジタルAV機器用レンズに関する技術協力契約を締結、ディコマー(''DICOMAR'' )レンズを搭載したデジタルビデオカメラなど3機種を開発・発売している。松下とはそれ以前からフィルム・コンパクト機(製造は松下系列の旧ウエスト電気(現パナソニック フォト・ライティング))のOEM供給を受けている。さらに2001年にはデジタルカメラ分野においても提携を行ない、レンズの光学系はライカと共同開発しライカのライセンスを受けて生産を行なっているほか、松下からのOEM供給によるライカブランドでの販売も行っている。松下がフォーサーズ・システムによるデジタル一眼レフカメラに参入した際にも同規格に賛同し、レンズのライセンス許諾による供給を行なうことになっており、ライカブランドでもDMC-L1のOEMモデルDIGILUX 3が発売されている。

製品

製品一覧

ライカの製造番号

1923年に製作されたサンプルのライカ0のNo.100からNo.129、1925年に発売されNo.130から番号をつけられたライカIを含めて現在までライカのカメラには通し番号がつけられている。また「何型のNo.何は何年にどこ向けで出荷された」という履歴が社内で記録されていた。この履歴は長らく社外秘であったが1961年からリークされるようになり、1973年には「型と番号の製造年度表」(''Angabe des Modells und des Baujahres'' )として正式にエルンスト・ライツから入手できるようになった。しかしこれは番号割当の表であって実際にこの通りに生産されたわけではなく、当初このリストに合わない個体があることに気がついたファンの間にかなりの混乱を招いた。 1978年にはライカI(A)からライカIIIgまでのライカ各型の製造台帳とも言える「ライカ・ヒストリカ第1巻」(''Leica Historica Band I'' )が入手できるようになり、「型と番号の製造年度表」と比較すればかなり正確な情報をかなり詳細に得られるようにはなったが、やはり欠番や重複が随所にある。またライカIライカI(B)には「Compur」の付記があるが、ライカI(A)ライカI(C)は全く区別されていない。 戦後になれば生産設備が整い1ロット辺りの製造数も多くなってかなり秩序だった生産がされているが、1台ずつ熟練工が組み立てていた戦前では製造番号通りの順で生産されたわけでもない。

贈呈品

エルンスト・ライツは古くから特別な製造番号の顕微鏡を商品とせず、著名な科学者等に贈っていた。これはライカカメラ発売後も続いた。贈呈されたライカカメラは以下が知られている。
  • 280 - ライカI(A)、1925年。フェルディナント・フォン・ツェッペリン。
  • 10000 - ライカI(A)、1928年。フーゴー・エッケナー
  • 15000 - ライカI(A)、1929年。スヴェン・ヘディン
  • 50000 - ライカI(C)、1930年。ドイツの探検家、ウィルヘルム・フィルクナー(''Wilhelm Filchner'' )
  • 75000 - ライカII、1932年。オーギュスト・ピカール
  • 100000 - ライカII、1933年。人類学者、アフリカ探検家レオ・フロベニウス(''Leo Frobenius'' )
  • 125000 - 登山家、ギュンター・ディーレンフルト(''G?nther Dyhrenfurth'' )
  • 150000 - コダクローム共同発明者、レオポルド・ゴドウスキー・ジュニア(''Leopold Godowsky Jr.'' )
  • 157000 - コダクローム共同発明者、レオポルド・マンネス(''Leopold Mannes'' )
  • 200000 - ライカを愛用した小型カメラ写真の先駆者、パウル・ヴォルフ(''Paul Wolff'' )
  • 230000 - ライカIIIa、1935年。日本写真歴史保存会会長、河原栄一
  • 250000 - ライカIIIa、1937年。ウィルヘルム・フィルクナー、中央アジアに残して来たNo.50000に代えて贈られた
  • 300000 - ライカスタンダード、1938年。アグファカラーの発明者グスタフ・ウィルマンズ(''Gustav Wilmanns'' )。
  • 350000 - ライカIIIb、1940年。アグファカラーの発明者ウィルヘルム・シュナイダー(''Wilhelm Schneider'' )。
  • 375000 - ライカIIIc、1941年。エルヴィン・ロンメル
  • 400000 - ライカIIIc、1945年。ウィルヘルム・シュナイダー、No.350000が損耗したため。
  • 450000 - ドイツユースホステル創業者、リヒャルト・シルマン
  • 500000 - ライカIIIc、1950年。エルンスト・ライツ2世
  • 555555 - 金メッキされたライカIIIf、1951年。ダライ・ラマ14世
  • 600000 - ライカIIIf、1952年。海洋生物学者、ウィリアム・ベーベ(''William Beebe'' )
  • 650000 - ライカIIIf、1953年。登山家、ギュンター・ディーレンフルト(''Gunter Dyhrenfurth'' )
  • 666000 - ライカIIIf、1953年。登山家、エドモンド・ヒラリー
  • 700000 - ライカM3、1955年6月。山岳写真家、スキーヤー、ステファン・クルッケンハウザー(''Stefan Kruckenhauser'' )
  • 750000 - ライカM3、1955年。写真家、アンリ・カルティエ=ブレッソン
  • 800000 - ライカM3、1955年。コンラート・アデナウアー
  • 830000 - ライカM3、1953年。ジャワハルラール・ネルー
  • 900000 - ライカM3、1957年。エドウィン・ウィッシャード
  • 919000 - ライカM3、1958年。エリザベス2世 (イギリス女王)
  • 980000 - ライカM3、1959年。ドワイト・D・アイゼンハワー
  • 1000000 - ライカM3、1960年。エルンスト・ライツ3世
  • 1000001 - ライカM3、1960年。写真家、アルフレッド・アイゼンスタット
  • 1259999 - ライカフレックスSL、1970年。レオポルド・ゴドウスキー・ジュニア。

商品コード

代理店との連絡の時間節約のために原則アルファベット5文字で定めたコードで、「フォコス(''FOKOS'' )」「ヌーキー(''NOOKY'' )」」など製品を特定するのに機種名に準じて使用されている。新コードは原則数字5文字に変更されている。

ライカの改造

戦前の純正改造

ライカII型の設計をする際、設計陣が設定した条件の一つに、ライカI型の基本形を変えず、顧客の要望でグレードアップできるという項目があった。これに伴い顧客のライカは直接または代理店を通じて送られ改造を受けた。
  • ライカI(A)からライカI(C)ライカI(C)0マーク付きライカスタンダード
  • ライカI(C)からライカI(C)0マーク付きライカスタンダード
  • ライカI(A)ライカI(C)ライカI(C)0マーク付きライカスタンダードからライカIIライカIIIライカIIIa

戦後の純正改造

第二次大戦後はしばらく改造の受付は中止されたが、ライカIIIf発売に伴いフラッシュシンクロの追加を含めて受付が始まり、1960年代初頭まで続いた。
  • ライカI(A)ライカI(B)ライカI(C)ライカI(C)0マーク付きからライカIIライカIIシンクロ付きライカIIIライカIIIaライカIIIaシンクロ付き
  • ライカIIからライカIIシンクロ付きライカIIIaライカIIIaシンクロ付き
  • ライカIIIからライカIIIaライカIIIaシンクロ付き
  • ライカIIIaからライカIIIaシンクロ付き
  • 戦後型のライカIcからライカIfライカIIfライカIIIf
  • 戦後型のライカIIcからライカIIfライカIIIf
  • 戦後型のライカIIIcからライカIIIf
  • 製造番号425001以後のライカIIIcからライカIIIfセルフタイマー付き
  • ライカIcからライカIIcライカIIIc
  • ライカIIcからライカIIIc
  • ライカIfからライカIIfライカIIIf
  • ライカIIfからライカIIIf
  • ライカIgからライカIIIg
  • ライカM1からライカM2 - ただし実例は確認されていない。
  • ライカM5、2本吊りから3本吊り。

非純正改造

日本では戦前も戦後も輸入規制がありまた関税・物品税などが高く、外貨の支払いを伴う改造の依頼はほとんど不可能で、日本の修理業者による改造が行なわれていた。光学精機(後ニッカカメラ)がライカの改造から事業を始めたことはよく知られている。場合によっては依頼者が強引に頼み込んだのかライカでないボディーを改造してライカと刻印してある場合もあり、この場合結果的にフェイクライカとなっている

ライカ製レンズの名称

以前ライカ製のレンズの名称は例えばテッサータイプのレンズはエルマー、プラナー型のレンズはズマロンのようにレンズ構成によって決められていた。しかしその後ほぼF値によって決められるようになっている。例えばF1から1.2はノクチルックス、F1.4はズミルックス、F2はズミクロン、F1.5はズマリット、F2.8はエルマリート、それより暗いレンズはエルマーである。

代理店

日本代理店は戦前からシュミット商会が行なっていたが、ウィルド傘下に入った1974年にウィルドの代理店だった日本シイベルヘグナー(現DKSHジャパン)に変更、その代理店契約が切れた2005年3月1日に日本法人ライカカメラジャパン株式会社を設立、2006年4月22日にはライカ初の直営店を東京・銀座に開店している。日本での開店に踏み切った理由として、世界でもっともライカの愛好者が多い国だというのが挙げられている。

関連する作品

  • ちびまる子ちゃん』- 作品中で「穂波真太郎(たまちゃんのお父さん)」がライカを使用している。このカメラは当初写真コンテストの賞品として貰ったという設定のライカM3であったが落下させて故障させ、花輪くんの家に使われずに眠っていたライカM4をもらって使用している。このことから代理店だった日本シイベルヘグナーは「老若男女の幅広い層にライカのブランド名を親しみやすく浸透させるのに大きく貢献していただいた」とライカR7うるしさくらももこに贈呈している。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 佐貫亦男著『ドイツカメラのスタイリング』、グリーンアロー出版社、1996年、ISBN 4-7663-3189-3
  • 北野邦雄著『世界の珍品カメラ』朝日ソノラマ
  • 田中長徳著『銘機礼賛』日本カメラ ISBN4-8179-0004-0
  • 竹田正一郎『ツァイス・イコン物語』光人社ISBN978-4-7698-1455-9
  • 『別冊ステレオサウンド ヴィンテージカメラセレクション』ステレオサウンド ISBN4-88073-035-1
  • 『フォトニュース』日本シイベルヘグナーライカバルナック事務局
  • 『クラシックカメラ専科』朝日ソノラマ
  • 『クラシックカメラ専科No.2、名機105の使い方』朝日ソノラマ
  • 『クラシックカメラ専科No.4、名機の系譜』朝日ソノラマ
  • 『クラシックカメラ専科No.8、スプリングカメラ』朝日ソノラマ
  • 『クラシックカメラ専科No.12、ミノルタカメラのすべて』朝日ソノラマ
  • 『クラシックカメラ専科No.19、ライカブック'92』朝日ソノラマ
  • 『クラシックカメラ専科No.24、バルナック型ライカ図鑑』朝日ソノラマ
  • 『クラシックカメラ専科No.28、M型ライカ図鑑』朝日ソノラマ
  • 『クラシックカメラ専科No.29、モダンクラシック』朝日ソノラマ
  • 『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99ライカのメカニズム』
  • 『クラシックカメラNo.1、特集ライカ』双葉社 ISBN4-575-47104-6
  • 『クラシックカメラプライスガイド1995年版ライカM型』I.C.S.輸入カメラ協会

関連項目

外部リンク

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